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「藝人春秋2」への書評

脱帽 博士の記憶と筆力

By.三谷 幸喜

2017年12月7日「朝日新聞」夕刊 「三谷幸喜のありふれた生活 875」より

​ 水道橋博士の新著「藝人春秋2」は、なんとハードカバーの上下巻。まるで海外ミステリーの新刊本のような装丁だが、中身は爆笑必至のノンフィクション。博士が出会ってきた芸人や著名人たちの、奇っ怪な生態が容赦なく、しかし愛情たっぷりに描き出されている。
 博士とは面識がないわけではないが、決して親しいわけでもない。ただ、昔からどうも他人と思えない何かがあった。常に誰かを驚かせたい、「あいつは人を食ったヤツだ」と言われたい。洗練された「いたずら小僧」でいたいと願い続ける男。しかし、どこかもうひとつ粋になれず、常に泥臭さがつきまとう。そんな博士のイメージは、そのまま僕にはね返る。

 特にこの「藝人春秋」シリーズを読んでいると、作中に登場する著者は、驚くほど僕自身に似ている。照れ屋なくせに、いや、照れ屋だからこそ、たまに大胆な行動に出てしまう。傍観者でいたいわりに、自ら物事の中心に深く食い込む「アグレッシブな傍観者」とでも言うべきスタンス。それは学生時代から今に至るまでの僕そのものである。
 三十年以上前に、三遊亭円丈師匠が書いた「御乱心」という小説がある。落語協会分裂騒動の顛末を描いた実録物(?)だ。その酒脱な筆致、人物描写の巧みさは、今でも僕が文章を書く時のお手本。そして水道橋博士の文章を読む度に、僕はこの「御乱心」を思い出す。題材の選び方もそうだし、人物への愛情の注ぎ方も似ている。そこからあふれ出るおかしみも。師匠と博士は我が国の、隠れた二大ユーモア作家だ。
 しかし僕がここで「藝人春秋2」を紹介したかった理由は他にある。下巻の第十章「芸能奇人・対決編1」の主人公は、なんと僕。十年ほど前、新幹線の中で博士と遭遇した際に起きたちょっとした事件の顛末。橋下徹氏、猪瀬直樹氏、寺門ジモン氏といった癖のあり過ぎる人たちの癖のあり過ぎるエピソードの中に突然、僕の話が出てくる。なんだか非常に気恥ずかしい。

 一読して感じたのは、はたして僕の章は他の章と同じくらい面白いのか。爆笑実録物としてのクオリティーを保っているのか。なにしろ当事者なので、冷静に読めないのだ。僕は博士にネタを提供しただけで、執筆には一切関わっていないが、やはり自分のことが書いてある以上は、面白くあって欲しい。
 非常に残念なことではあるが、ここに登場する僕は、まったくいいところがない。あの悪評しか聞こえてこない、芸人三又又三氏ですら、愛すべき人物として描かれているというのにだ。

 博士が車内で出会った「三谷幸喜」という脚本家は、ただの「迷惑な子供」。「いい歳してお前何やってんだ」的な言動を繰り返す変人である。これはあんまりだ。面白ければ何を書いてもいいのか(しかも本当に面白いかどうかは僕には分からない)。だが、なにより腹が立つのは、ここに書かれていることが、すべて事実ということである。
 博士の記憶と、文章による再現力に脱帽。

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芸能と政治に踏み込む

By.太田 省一(社会学者)

「共同通信配信」より

 1962年岡山県生まれ。著者のプロフィルにはこうある。

 60年代前半、地方に生まれ育った人間にとって、テレビやラジオの影響力は想像以上に大きい。なかには目や耳にするものすべてを漏らさず記憶しようとし、向こう側にいる演者に憧れを募らせる人間もいる。ただ実際にその世界に飛び込む人は限られる。著者はそのまれなひとりである。

 かくして著者は芸能の観察者であり当事者でもあるという二つの顔を持った。そんな自分を007もどきの「スパイ」に見立て、テレビやラジオに棲む「芸人」(それは、ジャンルを問わずメディアのなかで独特のオーラを放つすべての人を指す)の生態を描き尽くそうとしたのが本書だ。

 ノンフィクションと評伝を織り交ぜた手法から紡ぎ出される芸人の姿はどれも鮮やかで、味わい深い。たとえば、タモリが落とした財布の話からリリー・フランキーのラブドールの話へとつながるくだりには抜群の面白さと同時に不思議な余韻があるし、照英がすさまじい熱量で語る冒険譚を絶妙に再現した章には笑った果に不覚にも感動させられる。エピローグを飾る立川談志と泰葉のエピソードも印象的だ。

 だが、そのような愛すべきエピソードばかりではない。

 テレビやラジオが生み出す芸人はいまや政治の世界に影響力を持ち、現実に政治家にもなっている。橋下徹をはじめとするそうした人々と共演もする著者は、その火中でもがきながらも芸人としての己を貫こうとする。その実体験をもとに、芸能と政治をめぐるアクチュアルな問題に踏み込んでいく著者の姿も本書の大きな読みどころだ。

 そこには、観察者であり当事者でもある著者ならではの苦汁がのぞく。だがそれゆえに、現在のメディアと社会の紛れもない実像が見えてくる思いにもさせられる。上下巻あわせて700ページ超という大部ながら、一気に読める第一級の体験的メディア論である。

小倉智昭を「ピカ一」と賞賛…! 水道橋博士の文章芸が冴え渡る『藝人春秋』第2弾!

By.古澤 誠一郎

2017年12月8日「ダ・ヴィンチニュース」より

 浅草キッド名義で発表した『お笑い男の星座2』でのブレイク以降、ノンフィクション作家としても高く評価される水道橋博士。近年は芸能界の怪人・奇人を濃厚に描いたノンフィクション『芸人春秋』が好評を呼んでいたが、その第2弾となる『藝人春秋2』(文藝春秋)が発売。今回は上下巻合わせて700ページという大作となった。

 上巻の『藝人春秋2 上 ハカセより愛をこめて』で登場するのは、橋下徹、タモリ、リリー・フランキー、みのもんた、江頭2:50といった芸能人・著名人たち。そこで披露される逸話は、実際に彼らと間近で接してきた水道橋博士にしか描けないものばかりだ。

 たとえばタモリの章では、知らない人から博士の携帯に「タモリさんのものと思われる財布を拾った」という電話が……という“世にも奇妙な物語”を披露。また江頭2:50を取り上げた章では、彼が池袋のファッションヘルス店で起こしたサイテーすぎるトラブルを暴露している。

 ちなみに博士とエガちゃんは“プロのバットマン”として風俗巡りを共にする仲だったそう。本書は「水道橋博士が芸能人だからこそ書けた本」でもあるのだが、博士の披露するエピソードが面白いのは、博士が怪人・奇人を見つけると積極的に近寄り、トラブルの起こりそうな現場にも自ら身を投じてきたからだろう。中学時代から竹中労の著作を読み、彼に憧れていたという水道橋博士は、やはり芸能界の内側を暴くルポ・ライターでもあるのだ。

 下巻の『藝人春秋2 下 死ぬのは奴らだ』には武井壮、寺門ジモン、やしきたかじん、岡村靖幸らが登場。「わざと雨に打たれ、自分の体温で服を乾かす訓練をしていて風邪をひいた」「30年間トレーニングを継続し、人類史でも最強の男の1人と自認しているのに、他人と戦った実戦経験がない」という寺門ジモンのエピソードも爆笑だが、白眉といえるのは武井壮の章で登場する小倉智昭の描写だ。

 小倉智昭の100m走の自己ベストタイムが10秒9……という逸話も驚きだったが、なぜか博士は彼を描写する際に「フジ“生え抜き”のアナウンサーではなく」「実業家として二毛作で稼ぐ」「間髪を容れず、ジョークをカブせて」「そもそも、話の頭から不毛な議論だ」などと、身体の特定部分に関する言葉を多用。暴走ネタ、危険ネタで名を馳せたビートたけしを原理主義者のように崇拝する、博士ならではの文章芸が冴え渡っている。

水道橋博士『藝人春秋2』から広がるナイアガラの星座。

By.スージー鈴木

2017年12月3日「週刊スージー」より

 水道橋博士『藝人春秋2』上下巻が、爆発的に面白い。
 今や、博士が編集長の「水道橋博士のメルマ旬報」で書かせてもらっているので、博士の著作を賞賛する文章は、少しばかり書きにくいのだが。面白いものは面白いのだからしょうがない。この分厚い2冊を、たった2日間で読み切った。


 20140410/同業者の若者に勧めたい本~水道橋博士『藝人春秋』 
 http://suzie.boy.jp/index1404-1406.html

 

 前作『藝人春秋』については、まだ「メルマ旬報」に参加する前ではあったが、上のリンクで書いたように激賞させていただき、感動のあまり、身の回りの若い人たちに、自腹で配布までしたものだ。そして今回の2冊。
2冊の「背骨」となるのは、下巻の「橋下徹と黒幕」の項、それも177ページに極まるのだが、その対極ともいえる、サブカル系の人物をネタにした小品もまた読ませる。上巻の第6章、大滝詠一とマキタスポーツの章が、特に気に入った。
 今回は、その第6章の直後にある、上巻のエピローグ「はっぴいえんど」を読んで奮えたという話を書く。ここで博士が紹介しているツイートの「実物」は、この2つだ。

 

RT@makitasports(マキタスポーツ・来年1月「オトネタ」復活)
これは自慢w RT @hitoshione: わー!RT @makitasports: 天久さん作演出シティーボーイズの舞台裏で大瀧詠一さんと会う。「あなたには期待してます」と言われた。まず知られていたことにビックリ #makitasports #makita1422
3:29 - 2011年9月17日


RT@makitasports(マキタスポーツ・来年1月「オトネタ」復活)
これは自慢w RT @hitoshione: わー!RT @makitasports: 天久さん作演出シティーボーイズの舞台裏で大瀧詠一さんと会う。「あなたには期待してます」と言われた。まず知られていたことにビックリ #makitasports #makita1422
2011年9月18日


RT @s_hakase(水道橋博士)
@makitasports マキタよ。俺は20代の時に大滝詠一さんの自宅に行ったら「君たちの大阪のラジオを聞いてます」と言われたことがあるんだよ。これは自慢w。というより大滝詠一さん凄いだろ。
23:38 - 2011年9月18日

 

 その2つのツイートから言えることは、博士もマキタスポーツ氏も、ごくごく早い時期に大滝詠一に注目されたということと、博士も言うように「大滝詠一(のアンテナ)が凄い」ということである。

 そして、これも正直「自慢」なのだが、私も、生・大滝詠一と会い、一言言われているのである。今からちょうど20年前=1997年の春のことだった。


・そのときに書いた「潜入記」  

 http://suzie.boy.jp/fussa45.html
・そのときの音源

 https://www.youtube.com/watch?v=ODLfDWPBxns

 

 私が言われた一言は、私がサインを求めたときの、この言葉だ――「スージーくんとは、これから一緒に仕事をするかもしれないから、サインはしません」。

 結局、それから再びお会いする機会はなく、そのまま大滝詠一は、永遠の「2013年ナイアガラの旅」に出てしまったのだが。

 

 それから博士のお誘いで「メルマ旬報」に参加させていただき、その流れでマキタスポーツ氏とも出会い、そして、マキタ氏とテレビ番組BS12 『ザ・カセットテープ・ミュージック』に出演し、そして、その番組テーマ曲が、大滝詠一《君は天然色》なのである。

 

 大滝詠一と一緒に仕事をすることは叶わなかったが、出会いから20回の春と秋を越えて、いま自分がナイアガラの星座に導かれ、突き動かされている気がする。博士やマキタ氏ほどではないが、私も地味に星を継いでいく。
 

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君、生き急ぐことなかれ……『藝人春秋2』 に寄せて

By.同級生・K

 今回の作風は、浅草キッド名義時代の作品からから続く「ルポ芸人」路線だが、橋下、徳田、石原と政界周辺ネタが主流を占めている。特に下巻。「ボーイズ」のAさんへのプロテストが底流にあるのだろうが、こうした路線になったのは、「ルポ芸」が一つ間違えれば漫才同様に名誉毀損ネタになるからだろうか。その点、公的性質があるゆえ名誉毀損についてはハードルが低い政治方向にシフトしたのは、媒体が「文藝春秋」であることと相俟っての方向付けだったかもしれない。ただ、政界相手とて綿密な取材は必要で、発症は「ルポ芸」達成の代償なのだろう。そういう意味では、目下連載中の藝人春秋が軽めの路線に回帰していることには安堵を覚える。
 ルポ芸の対象を芸界から政界へとシフトさせつつも、作品のレベルはしっかりしている。特に三浦雄一郎の参議院選立候補辞退の話は、政治史上は1挿話に過ぎないかもしれないが、当時の参議院全国区選挙戦での自民党の戦略を垣間見れるという点で、良質なオーラルヒストリーになっていると思う。御厨貴の批評も気になるところだ。
 なお、自身が「参議院の候補」、「県知事候補」(『ムラびん』 138、163頁)と称しており、新たな「潜入先」として政界を模索しているようだが、これは立場上、余りお勧めしない。
 上下2巻を読んでみて、良質の原稿を書き続ける、しかも週刊で書き続けるというのは相当な負担だと改めて思う。しっかりした裏取りをしつつ旬を考えてネタを出し入れするとなると、下手な学術論文より過酷な作業を強いられていると思う。原稿料と単行本化による印税がどの程度かはさておき(文芸賞の名誉というのもあるかもしれないが)、健康を害しての執筆はマネーゲームとしてはおそらく赤字だろう。しかも、「芸能界に潜入中のスパイ」であることをカミングアウトすることで良質な情報の流入量は明らかに減るだろうし(意図的なリークは増えるにしても)、先行きを見据えた収支も余り良くないかもしれない。
 ただこうした所為は「書きたい」と欲望がある限りは自動的になされてしまうもので、何とも仕方ないのである。「よごれの魂」も含めて、これも芸風だから、微調整はしつつもこの路線で突き進むしかあるまい。ただ、この域まで達したライターが次の戦場をどこに求めるのかは、連載中の藝人春秋でもまだ見えていない。自分としては、上巻24頁や182頁辺りの「掛詞の集中砲火」が大好きなのだが(最近、個人的に受けたのは「永六輔の永眠」)、「大家」となってしまうとこうした遊びはできないかもしれない。それは何とも寂しいが、これも余計なお世話だろうか。
 本文のタイトルが不吉になったのは、ホームページやツイッターでの言動から、貴公がなんとなく生き急いでいると感じているからだ。自身の年表作成も穿ってみれば「生前葬」的な臭いがしなくもない。育ち盛りの子どもを3人抱えて、「少しでも残したい」という必死さもほの見えるし、抱えているスタッフに対する責任もある。また、記憶力や肉体の衰え、病気、年上の親族の衰えを自己投影しての不安感と色々なものが背景にあるのは分かる。それが全て焦燥感や「生き急ぎ」を当方に感じさせている。
 ただ、それに対する正しいアドバイスなど無いというのも分かつている。「思いに体が付いてこない歳なので精々ご自愛下さい」という当たり障りの無い、何も言っていないに等しいコメントしかできない。貴公もそんなことはとっくに分かっているだろうし、60過ぎまでは安穏とできるサラリーマンに一番言われたくない科白だろう。
 ただ、歴史家としての立場からは「健康で長生きした者が最終的には勝者」というのが真実と思えるので、屑になっても、小さくなっても「光り輝いて」いれば良いのだから、
「光」の安定供給も少しは考えて下さいと願うばかりである。

 なんとなく暗い締めになったが、これ以上書くと更に馬鹿がバレるのでここで欄筆する。

『藝人春秋2』を読んで……

By.fujipon

はてなブログ「琥珀色の戯言」より

 前作、『藝人春秋』が滅法面白かったので、今回の『2』にもかなり期待していました。

 どうしても、第2弾となると、最初のものよりはインパクトも楽しさも減ってしまいがちなのですが、この『2』は、質・量ともに大満足の1冊(というか2冊)で、上下巻あわせて700ページもあるのに、ほぼ一日で読んでしまいました。

 

 前作の感想の冒頭で、僕はこんなことを書きました。

 

    以前、「と学会」の本で、会員になった占い師に対する「バードウォッチングの会に入ってきた鳥」だというたとえがあったのを記憶しているのですが、水道橋博士は、その逆で、「バードウォッチングに夢中になりすぎて、鳥になってしまったバードウォッチャー」のように僕には感じられます。

    本質的には「観察者」なんじゃないかな、と。

 

 

 こうして「芸能界に潜入したスパイ」であることが周知されてしまった水道橋博士は、正直、情報収集活動がやりやすくなったところと、対象者の本当の「内面」に入り込みにくくなったところもあったのではないか、と思われるのです。

 ジャーナリストには、自分にとって都合の良い情報を流してもらいたい人も、接近してくるでしょうし。

 

 この本を読んでいると、芸能界という世界での、人と人との不思議な縁というか、「こんなところで、あの人と繋がるのか!」と驚かされるのです。

 タモリさんの免許証をめぐるエピソードや、ビートたけしさんが乗っていたという、一時は3億円したポルシェ959の現在の持ち主など、読みながら、「そんなこともあるのだなあ」「世の中には、僕の知らない『天上界』みたいなのがあるのか」などと、半ば呆れてしまいます。

 

 

 今から24年前、たけし軍団に「秋山見学者」という、ボクと同じ歳の芸人がいた。

    彼は弟子入り後、長くビートたけしの運転手を務めていた。

    やがて同期のボクらが漫才師として名が売れ出した頃、ピン芸人だった秋山は焦り、仲が良かったボクに相談を持ちかけた。

 「僕はどうすれば売れるんだろう?」

 「秋山は『見学者』なんだからさ、殿の行動を全部メモしたら? 今、日本一の売れっ子である殿の日常を事細かく書けば、絶対それは本になるって」

 「僕には無理だよ。文才がないから。俺はメモを残すから博士が書いてよ!」

 それから1年近く経ったある日——。

  あの話なんだけど……。結局、出版社が見つけてくれた他のライターが代わりに書いてくれたよ。博士、試しにこれ読んでみて!」

 手渡された原稿を預かって一気に読んだ。

  翌日、ボクは秋山にこう語った。

「秋山! これはオレの出る幕じゃないよ。めちゃくちゃ上手い! この人の文章は文句なくすごいよ! 絶対売れる!」

 ゴーストライターの名前は田村章だった。

 その本は1991年に太田出版から『たけしー・ドライバー』というタイトルで上梓され、重版を重ねるヒット作となった。

 そして、秋山は1995年に芸人を廃業し、田村章は2001年に本名の重松清で直木賞を受賞する。

『たけしー・ドライバー』という一冊の本の同乗者に、それぞれの岐路がある。

 

 

 そりゃ上手いよ、相手が悪すぎだよ!と読みながら呟いてしまいました。

 重松清さんが「伝説のゴーストライター」だというのは耳にしたことがあるのですが、水道橋博士とこんな縁があったとは。

 

 

 ビートたけしさんに関するエピソードには圧倒されるものばかりです。

 「セリフを覚えられないから、スカーレット・ヨハンソンにカンペを持たせた」なんていうのがサラッと書いてあるのを読むだけで、口元が緩んでしまいます。

 ヨハンソンさん、どんな顔でカンペを持っていたのだろう?

 

 そんなたけしさんが、息子さんに対しては、身内だけにかえって距離がつかめなくて、困惑している姿をみせていた、というのもすごく印象深かったのです。

 ずっと仕事漬けで忙しく、家庭を顧みることも少なかったであろうたけしさんと、その子どもとして、たぶん、良いことばかりではなかった息子さん。

 ビートたけしは、まさに「超人」だけれど、それでも、子どもの前では、ひとりの父親でもあるのです。

 そして、自分は必ずしも「良い父親」ではないのだろう、と考えてもいる。

 なんだか、読んでいて、すごくしんみりしてしまう親子の関係だったのですよね。

 

 もちろん、破天荒な芸人たちの伝説も収録されています。

 武井荘さんと寺門ジモンさんの直接対決は読み応え十分です。


 

 最後に行われた観客との質疑応答タイムにも見せ場があった。

「災害が起きた時の危険回避法は?」という質問に対して、「それは簡単!」とジモンが即答。

「それには普段からの人脈作りが大事なんだよ! まず天変地異の兆候は、築地に知り合いを作っておくのが一番早いから。そこから魚の水揚げ量の変化を常日頃聞いておくこと!」

 いきなり普通の人にはハードルが高い。

「あと、自衛隊幹部と知り合いになれば、非常時に事前情報が得られるはずだよ!」

 と、ご家庭では簡単に真似できない対処法を客席に投げ返した。

 しかし、ここでもスマイリーキクチが割って入る。

「ちょっと説明を加えますが、それウソじゃないんです。本当にジモンさんが日頃からやっていることなんですよ」

 なんでも、スマイリーが自衛隊官舎近くに住んでいた頃、ジモンから「毎朝、官舎の様子を見てこい!」と頻繁に偵察指令が下されたらしく、その面倒さに大迷惑していたと事実を裏付ける証言がなされた。

 すると「それが何か?」とでも言いたげな表情でジモンが平然と続ける。

「いいかい? じゃあ今日はライブだからもっと良い方法を教えてあげようか? 日本国の最高権力者である総理大臣が官邸にいるか、首都圏を離れたか、総理の居場所を把握して非常時を判断するの! ホントだよ。だから俺は、番組で知り合った小泉総理の息子の小泉孝太郎くんに電話番号を聞き出して、その後、さりげなく彼に電話して、世間話のフリをしながら、毎日、父親の行動を確認するの!」

 百獣の王たるものライオン総理の動静を知るべし、というわけか……。

 衝撃的かつ全く無意味な、最高権力者へのストーカー行為を告白して、この日は散会となった。

 

 

 これ、ヤバい人だよ……

 こんな話を聞くと、いろいろ批判もされるけれど、一国の総理大臣っていうのは大変だな……と思うのです。こういう人は、ジモンさんだけじゃないでしょうし。

 小泉孝太郎さんも、自分の親のこととはいえ、大変だよね……ちゃんと教えていたのだろうか。

 

 この『藝人春秋』、芸能界の面白おかしいエピソードを採りあげただけの本ではなくて、これまでオフレコにされていたことを明らかにしたり、みんながなんとなく信じていた「通説」を、博士自身が取材をしたり、資料にあたったりして検証しているんですよね。

 水道橋博士自身のコメンテーター降板事件や、やしきたかじんさんの『殉愛』騒動の背景にあったもの、石原慎太郎さんと三浦雄一郎さんの間に起こった「ある事件」について、三浦さん本人に直接確認した話は、本当にすごかった。

 その件に関する事実だけではなくて、人というものの「思い込み」や「誤解」「真実が失われている過程」について、考えさせられました。

 本人に対して、ど真ん中に直球を投げれば、ちゃんと受け止めてくれるのに、みんな「忖度」して、あたってみることもしないまま、わかったようにふるまっていたのだよなあ。

 

 

 こういう「徹底したジャーナリズム精神」が、水道橋博士の凄さなのだけれど、うまく手が抜けないキツさもあったはずです。

 

 江口寿史先生の挿絵もすごかった。

 藤圭子さん、しばらく目が離せませんでした。

 

 水道橋博士は、32歳のとき、「芸人として実績もないまま、評論家のように『芸』について文章を書く」ことに疑問を持っていて、それを立川談志さんに相談したことがあったそうです。


 

「ワタシがねー、『現代落語論』を書いたのは20代ですからねー」

 そう言うと、数秒、間を置いて頭上を見上げた。

 そして、自らが問いかけ自らが答える、いつもの談志口調でこう言った。

「ンーー、芸人が話すだけでなく本を書く……。それは全部、言い訳なんです。芸人は己の芸だけでは気が済まない。言い訳したいんだ。言い訳したいから話すんだ。話すだけでは収まらないから記すんですなー。そんなことは、全部自分が欲するからやってんだ。自分が好きでやってることなのに、なんで人の評判を気にかける? 他人は関係ない。自分のことは自分で認めてやればいいんだ。芸人なんてえのは、自分の好みになるのが一番いいんです!」

 その瞬間、長くまとわりついていた心の澱が流れ、「芸人が書く」ということに対する躊躇いが自分の中でハッキリと吹っ切れるのを感じた。

「ワタシがねー、いつも言うんですけどね、芸には完成はない。その芸人のプロセスが芸である。だからブレようが、昔と言っていることが違おうが、その変化もしれはそれでイイんです。書くことだって同じでしょう。同じテーマを与えられても全く同じことを何度も書かないでしょう」

 ボクは沈黙しながらも、心の中で深く頷いていた。

 

 

 芸能人や芸人、政治家など「別世界にいる人」の真似できないような武勇伝を面白おかしく書いたもの、のはずなのだけれど、僕は落ち込んでいるときにこの本を読んで、なんだか元気が出てきたんですよ。

 ああ、いろんなしがらみとか面倒くさいことがあるけれど、人間って、「自由に生きる」こともできるんだな、って。

 「自由に生きる」「自分らしく生きる」って言いながら、実際にやっていることは出会い系サイトや投資や仮想通貨の宣伝で、セミナーにファンを集めて、「私みたいになりたいでしょ」とお金を貢がせる人がいる。そんなニセモノの「自由主義者」に引きずられる前に、この本を読んでみてほしい。

  芸能界には、いろんな変わった人がいるし、独特のルールもあるけれど、「社会」のなかでは生きづらそうな人たちが、自分の人生や命を担保にしながら、「自由」に生きている。

 自由には責任が伴う。

 でも、逆に考えれば、責任をとる覚悟があれば、人は案外、自由になれる。

 

 寺沢武一さんのマンガ『コブラ』に、僕が大好きなセリフがあるんです。

 この本を読みながら、何度もこれが頭に浮かんできました。

 

「死ぬのは、たった一度だぜ」
 

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水道橋博士『藝人春秋2』のはなし

By.popholic

はてなブログ「日々の泡/popholic diary」より

​ 水道橋博士さんの「藝人春秋2」読了。まずは上巻「ハカセより愛をこめて」。


 タモリとの奇妙な縁、赤いポルシェと金のロールスが繋ぐ壮大なる嘘のようなホントの話、流れるような語り口で語られる序盤ですっかり本の中に取り込まれる。三又の玉金や照英の世界を股に掛けた珠玉の冒険譚に笑っているうちに物語は親子の物語に。さんまのむすめ、たけしのむすこ、圭子のむすめ…語り部として親と子の物語を語る中で水道橋博士自身が受け継いできたもの、受け継いでいくものが浮かびあがる。大滝詠一との邂逅話にはマキタスポーツ、プチ鹿島という二人の芸人の名前。そこには確かにバトンが見える。上巻は「ほしをつぐもの」の物語。愛すべき「藝人」たち、その星の一つ一つが形作る星座を星のお兄さん=水道橋博士が極上の愛を持って解説してくれる。「藝人春秋2」上巻、「ハカセより愛をこめて」というサブタイトルに納得。


 続いて「藝人春秋2」下巻「死ぬのは奴らだ」。


 いささかハードボイルドなプロローグ。芸能界に潜入したスパイが遭遇する冒険譚は、上巻で語られた照英の冒険譚に引けを取らないほど危険に満ちあふれている。もはや名人芸とも言える最強伝説語りでは「藝人春秋」ワールドの住人にして狂人、寺門ジモンが満を持して登場。武井壮との壮絶かつズンドコな戦いを繰り広げる。行間から3Dいや4Dの勢いで寺門ジモンが迫ってくる。この臨場感がとにかく凄い。上巻の照英エピソードもそうだけど、今まさに目の前で本人が喋っているのを聞いているような感覚に襲われる。声が聞こえてくるし、表情が見えてくる。観察眼の鋭さとそれを文にして伝える技。「藝人春秋」シリーズの大きな魅力の一つだと思う。


 で下巻は武井壮VS寺門ジモンのように対立構造で様々な物語が展開されていく。やがて辿りつくのは関西の巨星、やしきたかじん。この関西の巨星がもう一つの巨星「殿」と交わった伝説の一夜。その一夜を複雑な心境で見つめていた「殿」の弟子。図らずも巨星の「晩年」となった数年を殿の弟子=水道橋博士が記者の目で捉える。関西で最もアンタッチャブルな話題。「藝人春秋2」の核とも言える第9章「橋下徹と黒幕」へ。ここで上巻第一章とリンク。関西に降り立ったスパイが標的として照準を合わせたのは?


 関西で暮らしているとこの十年ほどで大阪の空気が一変したことを肌で感じる。たかじんが病に倒れ、その後亡くなってからはもはや引き返せないほどに不穏な空気に満ちている。私は中立ですと言いながらニヤケ顔で巧妙に印象操作を行うキャスターと右曲がりの論客が居並ぶ「委員会」。かっては庶民の代表だったはずの芸人たちは、ひたすら権力にしっぽを振って庶民を恫喝する側に回った。関西の週末に放送されるニュース系番組に潜むデマやヘイトの種はもはや危険水域を超えている。これは関西に暮らす者としての実感だ。


 で話を戻そう。大阪を「不寛容で笑えない」街に変えた橋下徹元大阪市長との対峙から番組降板事件の真相が語られる。橋下元大阪市長に向けられたと思われた銃口の先、降板事件の深層には「黒幕A氏」の姿が。口汚いベストセラー作家によって書かれた「殉愛」。たかじん最期の日々を綴った“自称”ノンフィクションにも登場するA氏に向けて、博士は言葉を丁寧に積み重ね、その罪を問う。下巻177ページに記された言葉の覚悟と重み。「藝人春秋2」下巻、「死ぬのは奴らだ」というサブタイトルの意味を知る。


 そして話は石原慎太郎VS三浦雄一郎に。掛け違ったボタンが、どこで、どう掛け違われたのかを、なぜそこまでこだわるのか?というほど執拗に徹底検証していく。資料にあたり、本人に会いそれぞれの口からそれぞれの“事実”を聞きだす。その姿勢はどこか狂気じみているが、この“掛け違ったボタン”への興味、真相を知るべく深層に向かう狂気こそが「藝人春秋」であり、水道橋博士が本を書く理由なのではないか。徹底した事実の積み上げからなる歴史。歴史と向き合い、歴史を知ることからしか始まらない。そんな博士が「殉愛」を決して許すことができないのは至極当然のことだと思う。


 スリルとサスペンスに満ちた息が詰まるようなエピソードの後に、岡村靖幸が登場。2人が登った高尾山のエピソードを読み終わればさわやかな風が吹く。「藝人春秋2」上下巻凡そ700ページを登頂。爽快な気持ちが重なったところでエピローグへ。


 先代・林家三平の娘・泰葉との交流からある衝撃的な告白がされる。「藝人春秋2」が文字通り身を削り命をかけて書かれたことを知る。前作から5年、週刊誌連載からこの単行本化に至るまでの長い道のり。その間の博士の言動、日記やTwitterでの言葉を思い返せばその衝撃はさらに大きくなる。思えば思うほど、考えれば考えるほど、気が遠くなる。いったいどれだけの覚悟を持って、この本が書かれたのか。一文、一文に込められた想いがどれだけの重みを持つのか。巧みな言葉遊び、爆笑エピソードの数々、徹底的に裏取りされ検証された「本当のこと」、その上に沸き立つロマン…。身を削り命をかけて本を書く水道橋博士の姿が、標高8000メートルのエベレストからスキーで滑降した三浦雄一郎の姿と重なる。


「水道橋博士は、あの世のようなこの世を何度も行き来して、自ら消え去ることなく、今も次の山を目指している。」


 そして「藝人春秋2」上・下巻を締めくくるのは、泰葉から語られた立川談志最期の「芝浜」。このあまりに美しいエピソードに読んでいるボクもまた、気がつけば涙を流していた。

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『藝人春秋2』&『チュベローズで待ってる』&『最後のジェダイ』について

By.碇本学

はてなブログ「Spiral Fiction Notes」より(メルマ旬報 Vol.142に掲載)

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 十九歳の時に上京してバイト先で偶然にも現れたビートたけしはホログラムのように揺蕩い身を焦がすほどの憧憬の果ての夢の端に浮かび上がった幻影にも見えた。
 ボクはこの世では生きているか死んでいるかわからないのっぺらぼうの日々に見切りをつけた。
 二十三歳で出家同然にたけしに弟子入りしボクもあの世の登場人物のひとりに相成った。
(中略)
 おもいでは過ぎ去るものではなく積み重なるものだ。
『藝人春秋』と名付けた本書はこの世から来た「ボク」があの世で目にした現実を「小説」のように騙る――お笑いという名の仮面の物語だ。
水道橋博士著『藝人春秋』まえがきより

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 今年最後の連載では水道橋博士著『藝人春秋2』上下巻について感想を書こうと考えていた。発売したばかりの加藤シゲアキ著『チュベローズで待ってる』上下巻も読み終わって、この小説に書かれていた構造を考えていたらこの2作品を絡めてなにか書けないものかと思っていたので勢いで書いてみることにした。

 上旬にはある程度、原稿を書いていた。そこから時間をおいていたのだけど、先日『最後のジェダイ』を観に行った。今回取り上げる神話論と切っても切れない関係にあるのが、『スター・ウォーズ』シリーズもといサーガだったりするのでそこも絡めて書けないものかと思って、さらに見切り発車してみようと〆切間近に書き足している。
 

 芸能界に潜入したルポライターである博士さんが、『007』になぞらえて自分は芸能界に忍び込んだ「スパイ」という設定を決めて、芸能人から政治家まで根気強く事実を探って資料や言質をまるでパズルのピースを集めるようにして書いたのが新刊『藝人春秋2』である。
スパイというとやはり表舞台の人ではなく闇で動き回っていて、この現実世界にいながらも少し僕らとは違う世界で生きている人のイメージがある。半分この世の者でありながらも半分はあの世に突っ込んでいるような存在と言えるのかもしれない。
 

 冒頭に引用したのは前作『藝人春秋』のまえがきだが、師匠・ビートたけしに弟子入りしたことにより小野正芳はこの世ではなく、あの世に移行して名前も「水道橋博士」となった。また、『チュベローズで待ってる』の著者である加藤シゲアキさんはジャニーズ事務所のアイドルでありNEWSのメンバーのひとりだが、NEWSというグループは2003年結成当時には9人だった。しかし、2011年10月7日に事務所から「山下(智久)はソロ活動、錦戸(亮)は関ジャニ∞の活動に専念するため、NEWSを脱退することになりました」とマスコミ各社にFAXが送られたことにより、残った現在の4人はNEWSとしての活動を継続することを決め現在の体制になった。

 同年11月22日、彼はそれまで活動していた名前である「加藤成亮」から「加藤シゲアキ」に変更し、『ピンクとグレー』(2012年1月28日発売)で小説家デビューすることを発表した。彼もまた大きな変化の時に名前を変えた人だった。
 

 本名と芸名を分離することの意味はかなり大きなものであるはずだ。彼らの視線はあの世(芸能界)からこの世(一般社会ととりあえずしておく)を見る人となった。といえども博士さんの場合だと、夫であり3人の子供の父である小野正芳としてこの世で生活はしている。だが、一般人からすれば普通に歩いている彼は芸人である水道橋博士なのである。これはどこかこの世とあの世が入り混じっている感覚なのではないだろうかと僕なんかは思ってしまうのだが、顔を知られているという特殊な業種や立場の人でないと経験することはない事例だろう。
 

 彼岸にいながらも同時に此岸にいるという特殊な視線と立場だと僕は想像している。
 

 博士さんが同じくまえがきに書かれていたのは、素人時代には小説を読んで非現実に耽溺していたが今ではその時の方が現実感がなくなっており、現在ではテレビの収録現場にいる方だけでフィクションへの渇望がなくなっている、と。だからこそ、博士さんはノンフィクション系の書籍は読むが今や小説を積極的に読もうとは思わないということらしい。なるほど、と思う。逆に加藤シゲアキさんはフィクションを書いているので面白い対比だなと思ったりする。

 人と人を繋ぐ「星座」(コンステレーション)の概念とそれまでの人生で起きたことを現在において伏線を回収するという言い方を博士さんはよくされている。故・百瀬博教氏に言われた「出会いに照れない」を実践することでいくつもの数えきれない星も満天の星空が広がっていく、という考え方は博士さんが書かれたり発言されることで伝播していっているのも知っている。僕もそのひとりだと自覚している。

 今作『藝人春秋2』が書き上げられたのも星という単語を使って言うのなら満天星(どうだん)である。パッと見ではわからない繋がりや時間が隔てられてしまって途切れてしまったものをいかに結びつけるか、あるいは証拠を探し当てたり、当事者の元に赴いて言質を取っていく入念な下調べがあるからこそ、パズルのピースがカチッとハマるような快感があり、「星座」の物語になっていく。それ自体は博士さんの生き方に由来しているのだろうし、ライフワークとして小野正芳≒水道橋博士の軸になっている。だからこそ、博士さんはやめないしやめられないのだろう。



『チュベローズで待ってる』上下巻を読了して最初に思ったのは、処女作『ピンクとグレー』から彼の作品はずっと一貫しているということだった。物語には行って帰ってくる(鯨の胎内に入り戻ってくる)という英雄神話構造(キャンベルの神話論『千の顔を持つ英雄』)がある。簡単にいうと、王になるものは一度、死の国(クジラの胎内≒あの世)に行って通過儀礼をしてこの世に帰還することで現世の王になるというものだ。文庫版『リアル鬼ごっこJK』の中で小沢健二について僕は作中の登場人物のセリフでこの話をさせている。小沢健二は渋谷系の王子のまま突如日本から消え海外に行って様々な冒険と経験をして帰ってきた。『小沢健二の帰還』という宇野維正さんの本が出ているが、僕はどうしても王子が王になって帰還したとは思えないでいる。

 加藤シゲアキデビュー作『ピンクとグレー』で最も印象的だったのは、アイドルとしての自分とそうでない自分が「行って帰ってくる旅」を得て統合されることで彼(主人公≒著者)は「加藤シゲアキ」になっていく所だった。あるいは書くことで当時のメンバー脱退における傷だったり悩み、そしてこれから自分はどうしていくのかという意味を含めた自己セラピーのような役割があったのだろうということは簡単に想像できる。しかし、そう想像させるようにもあえて書いている感じをも匂わしてくるからとてもクレバーな書き手だと思った。

 同時に小説できちんとエンタメを書くことができるのも、エンタメにしないといけないのも彼の本業がアイドルだからというのも大きかったのではないだろうか。どちらかというと扱っている主題や内面の問題は純文学的部分があったはずだが、エンタメ小説にするために振り切って書ききったのではないかと推測している。
 

 今作の上巻では就活に失敗した大学生(光太)が新宿のホストに出会ったことで自らもホストになりナンバーワンになっていく。そして10年後を描いた下巻ではゲーム会社のやり手のクリエイターになった未来編が描かれている。

「このゲーム(物語)の主人公は僕ではなかった」と下巻の帯文にもあるようなミステリーになっているのも楽しめるポイントだが、僕が気になったのは先ほど述べたような人物が統合されるという部分があることだった。それを今回は二重螺旋のような構図で書いているのがミソだと思う。これは少しネタバレに近しいことを書いているような気はするが、これでラストのオチなんかがわかる人はすぐにミステリー小説が書ける人かもしれない。
 また、終盤の作品のキーマンと光太のやりとりは事務所と所属タレントのようにも見えなくはない。それは深読みではなくてあらゆる関係に起きる事柄だし、読んだ人ならなんとなくわかってくれると思う。あの部分はタレントである加藤さんの本音みたいなものが一部出ちゃっているような気がした。

 この小説で最も重要なことは上下巻で500ページ以上あるこの作品を手に取って読み終わる若い世代の読者がたくさんいることだろう。長い小説を読めると今まで読めなかったものも読めるようになるし、他の小説にも興味を持ってもらえることにもなる。それができる著者はやはり多くはないから、この小説が多くの人やいろんな世代に読まれることの意味は非常に大きい。
 

 僕がまんが原作者の大塚英志さんに影響を受けているので、小説を読んでいたり映画を観ていると構造なんかについて物語論や英雄神話構造なんかが浮かぶ。世間的に一番有名なのは『スター・ウォーズ』がジョーゼフ・キャンベルの神話論をジョージ・ルーカスが採り入れたということだろう。特に「鯨の胎内」というのは多くの物語に採用されているし、現実世界では実際に死んでなくとも近い経験や違う世界での経験によってパワーアップしたり新しい人生の局面に進むということもある。
 同時に作り手の多くはキャンベルの神話論を読んでいなくても、知らないうちに多くの物語からそれを受け取っているので、その構造を無意識であれ意識的であれ書いている。例えば、水道橋博士著『お笑い男の星座2』でも読んだ人の心を掴んで離さない「江頭グラン・ブルー」だとこう書かれている。
 

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 生と死は隣り合わせである。
 江頭は覚悟どおり死を選んでいた。
 たしかに、このわずか、数分のなかに江頭という男の一生を見せていた。
 救急隊員に酸素ボンベで吸入されているうちに、ボコボコボジャーボコと口から飲んだ水を戻すと、江頭が息を吹き返した。
「うぉ~おおぉう、うえぇえぇ~ん、あ゛~ぅあ~あ゛ぅあ~ぁあ゛あ゛」
 江頭は号泣していた。
 その瞬間、まるで水槽という羊水のなかから大きな産声を上げ新たな生命が誕生したように見えた。
 決して日の目をみることのなかった芸能界の暗黒の深海芸人が、一瞬の死を経て、再び生を取り戻すと燦々と、太陽が降り注ぐ大海原に水飛沫をあげて浮上し輝いた瞬間だった。

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 実際に「鯨の胎内」という物語論を他の芸人さんに当てはめて考えてみるとどうだろうか。水道橋博士さんは免許を不正取得した事件(「運転免許を笑えるものにする」というたけし軍団内での遊びがあったが、博士さんは3年に1度の免許更新を待ちきれずに紛失したと偽って免許証を3回再取得した。これが道路交通法違反になり書類送検された)で謹慎をすることになった。『お笑い男の星座2』の第4章「変装免許証事件」にこの出来事は詳しいのだが、その謹慎によって歩合制だったために給料はなくなり仕事も当然なかった。相方の玉袋さんもコンビとして同罪扱いで謹慎になり、妻子と一緒にマンションから実家に戻ることになった。謹慎があけて高田文夫さんのプロデュースの舞台で浅草キッドとして復活することになる。けっこう当てはまっているように思えなくもない。

『藝人春秋』文庫版のボーナストラックの「2013年の有吉弘行」での猿岩石でのいきなり大スター、そして一気に人気芸能人の頂点から転げ落ちていった有吉さんの雌伏の時間と現在に至る大々復活と再び頂点を登っていく姿も物語論的に考えることができそうだ。

 なんといっても「鯨の胎内」をリアルに体現しているのは博士さんの師匠であるビートたけしさんその人だろう。バイク事故で本当に死にかけて戻ってきた男。復活後に撮った映画は『キッズ・リターン』であり、最後のセリフ「マーちゃん、俺たちもう終わっちゃったのかな?」「バカヤロー! まだ始まっちゃいねーよ!」は観た人に印象深く刻まれている。ここからビートたけしであり北野武の再び王としての時代が始まることになったのは間違いない。という見方はわかりやすいが、実際に本当にフィクションではなくノンフィクションで体現してしまっているのだから仕方ない。王になる人には王になるべきいくつもの物語があり、それが語り部たちによって後世に伝えられていくから伝説になる。



 キャンベルの物語論 三幕の17ステップにおける「第一幕」に『チュベローズで待ってる』の冒頭を当てはめるとわかりやすいのではないかと思ったので簡単に書いてみます。

「ホスト、やるやんな?」
就活に惨敗し、自暴自棄になる22歳の光太の前に現れた、関西弁のホスト・雫。
翌年のチャンスにかけ、就活浪人を決めた光太は、雫に誘われるままにホストクラブ「チュベローズ」の一員となる。
人並み外れた磁力を持つ雫、新入りなのに続々と指名をモノにしている同僚の亜夢、ホストたちから「パパ」と呼ばれる異形のオーナー・水谷。そして光太に深い関心を寄せるアラフォーの女性客・美津子。ひとときも同じ形を留めない人間関係のうねりに翻弄される光太を、思いがけない悲劇が襲う――。
「渋谷サーガ」3部作で知られる加藤シゲアキが、舞台を「新宿」に移して描き出す新境地ミステリー。(公式サイトより)


第一幕 出立
 1・冒険への召命
 2・召命の辞退
 3・超自然的なるものの援助
 4・最初の境界の越境
 5・鯨の胎内

非日常への旅立ち:呪縛と庇護者

1・冒険の召命

 広い意味での幼年期にある主人公(=「セルフの覚醒」に至っていない)は、「幼年期の終わり」を告げる出来事に遭遇する。

父はすでに死去しており、母と年の離れた妹がいる主人公の光太。同級生の彼女は就職が決まっている。彼は30社近く入社試験を受けたが最後の1社からも内定の連絡が来なかった。就職浪人をするために来年一年大学に行こうと思っている。単位はほぼ取っているので家族の生活費と大学費用を稼ぐバイトを探さないといけない状態になった。新宿で内定をもらえなかった憂さ晴らしで飲んでいたらひどく酔ってしまい路上で吐いてしまった。そこにやってきたのはチャラチャラした男でホストの雫だった。ホストやりいな、となぜか雫に気に入れられてホストに誘われる。
 

2・ 召命の辞退

 しかし人間は本能的に変化を拒む。素直には旅立たせず、主人公自身のためらい、あるいは周囲の人間の引き止めにより出立に二の足を踏む。これは「眠り」というモチーフで表現されることもある。


 雫にホストに誘われるたがその夜は断って家に帰った。幼い妹はゲームばかりしている。光太はゲーム会社に就職したかったが落ちた。恋人は家族ぐるみの付き合いで家にもよく来るが、彼女から妹がゲームばっかりしてて大丈夫なの、家族として注意した方がいいんじゃないと言われる。ふたりが寝ようとすると妹がやってきて3人で川の字で寝ることになる。


3・超自然的なるものの援助

 日常の惰眠へ引き戻される主人公を目覚めさせる存在が現れ、超自然的な力やアイテムを与えて背中を後押しする。

 悩んだ末に雫に連絡をしてホストクラブに赴く。光太から源氏名である「光也」という名前が与えられる。ホストクラブに行って挨拶を済ませた後に雫から10万円を渡されてダサくない服を買ってこいと言われる。それが体験入店へのエントリーシートになる。そこで買ってきたものを雫が見て合格になり、ホストクラブで働けることになる。


4・最初の境界の越境

「こちら側→向こう側」への越境。「境界線」の存在とそのハードルの高さを象徴する「境界守」が配置される。

 雫はオーナーの次に偉い存在であり、それまでは敬語ではなかったが敬語を使うように言われて上下の関係性ができる。閉店後に雫の下のホストたちに生意気だと洗礼を浴びせられることになる。妹が中学受験をしたいと言い出す。その塾代が4年間で250万ほどかかることがわかり、それをホストで稼ぐことを決意する。同時に彼女とともにいた大学生だった世界から離脱していく。


5・鯨の胎内

「向こう側」というのは「(象徴的な意味での)死の世界」であり、主人公は一度死に、再生して「こちら側」に戻ってくる。「再生」のイメージと「母胎」のイメージが重なり合う。

 ホストになるのが光太にとって最初の「向こう側」である。そこでの名前は「光也」を使うことになる。彼が「こちら側」に光太として帰ってくるのは下巻以降になる。これ以降の上巻の展開は「第二幕 イニシエーション:試練と成長」のパートがうまく当てはまっているように思われる。


第二幕 イニシエーション
 6・試練への道
 7・女神との遭遇
 8・誘惑者としての女性
 9・父親との一体化
10・神格化
11・終局の報酬


第三幕 帰還
12・帰還の拒絶
13・呪的逃走
14・外界からの救出
15・帰路境界の越境
16・二つの世界の導師
17・生きる自由


 となっているのでぜひ小説を読んでもらってこの流れにあるか確認してみてほしいです。キャンベルの物語論は3幕構成なので残りの第3幕については下巻「AGE 32」がその役割を担っていると考えられるかもしれません。


 このキャンベルの物語論「三幕の17ステップ」を使って作られたのがジョージ・ルーカスによって作られた『スター・ウォーズ』(「旧三部作」オリジナル・トリロジー)でした。新作『最後のジェダイ』はエピソード8にあたり、「続三部作」シークエル・トリロジーの二部作目です。この三部作で『スター・ウォーズ』シリーズ、サーガは完結すると思っていたら、やっぱりというか2017年現地時間11月9日にウォルト・ディズニー・カンパニーにより、シークエル・トリロジー完結後に新たな三部作の実写映画の制作が予定されていることが発表されました。


『最後のジェダイ』の監督ライアン・ジョンソンが主導し、ルーカスフィルムに「三本の映画、一つの物語、新たな登場人物、新たな場所。フレッシュに始めよう」と提案したという。「エピソード1~9」のスカイウォーカーの血統の物語からは離れた、新たな別の人物を主人公とする三部作を予定している。ライアン自身は1作目を監督する予定だが、全作を監督するかは不明。


『最後のジェダイ』を公開日に観に行った最初の感想はもはやこのサーガには血筋などはいらないのだなということだった。「他者の物語」にどんどん興味が失われている世界では「自分の物語」だけにしか関心が向かなくなっているという事実がある。誰もがスマホがあればかつての方に情報をただ受信するだけではなく、自ら発信できる世界になっている。だからこそ、ある一族の、限られたエリートだったり王のような存在に感情移入する能力というか、想像し妄想して自分に重ねたりする力は失われてしまっている。奪われているとでもいうのかもしれない。

 誰もが主人公になれる、主人公であるという世界を『最後のジェダイ』では描いてしまっている。そして、シークエル・トリロジーの完結後に新しい三部作を作るということが前提である以上は、仕方のない物語の転換だったということもどこか理解できてしまう。『スター・ウォーズ』サーガがこの先、ディズニー傘下で作られていくということは今作で、『スター・ウォーズ』の軸にあったジョーゼフ・キャンベルの神話論を『スター・ウォーズ』の中で殺す必要がどうしてもあった。だからこその物語展開であるのは非常に納得できるものだった。それが面白いか面白くないかは別問題ではあるし、観客の好き嫌いも別問題だということだ。僕は正直面白いとは思えなかった。

『最後のジェダイ』は(息子世代のライアン・ジョンソンによる)『スター・ウォーズ』が(父であるジョージ・ルーカスの)『スター・ウォーズ』殺しをした作品である。それこそがまるで神話論の構造でしかないのだが、そうやって父(オリジナル)の呪縛から解き放たれてしまった『スター・ウォーズ』だからこそ、スカイウォーカー家の血統の物語からは離れた新しい主人公を置いた三部作を作ることが可能になる。うん、そうでしょう、でもさ、それって『スター・ウォーズ』って呼べるのだろうか、否か。

 富野由悠季監督は彼自身が作った『機動戦士ガンダム』シリーズにおける架空の年代史である宇宙世紀を自ら葬るために『∀ガンダム』を作り、その中で使われた言葉が「黒歴史」だった。過去に起きた宇宙戦争(宇宙世紀)の歴史を「黒歴史」という言葉で表現していた。これがいつの間にかネット用語で「なかったことにしたい」or「なかったことにされている」過去の事象を指すものとなって一般に広まっていることは意外と知られていない。でも、富野監督は自ら作り上げた世界観(宇宙世紀)を葬ろうとしたことは事実だ。そういえば、『最後のジェダイ』でのレイとベン(カイロ・レン)のやりとりってなんかニュータイプみたいな感じに見えて、アムロ・レイとララァ・スンのやりとりみたいだった。だから、ちょっと今更かよとも思った。

 ジョージ・ルーカス監督は『最後のジェダイ』については「見事な出来栄え」と肯定的な感想を述べているという。それはやはり自ら殺すことができなかった、あるいは旧三部作以外は制作できなかった『スター・ウォーズ』という手に負えなくなってしまった作品の中にある自分の存在を殺してくれたからだろう。ルーカスの分身でもあったルーク・スカイウォーカーの最後が描かれているのも当然だし、ルーカス≒ルーク・スカイウォーカー≒「最後のジェダイ」がいなくなった世界では新しい何がしかの物語が始まる。

 ルーカスは父殺しをされることで『スター・ウォーズ』から解放された。父を殺してしまって王位に就くライアン・ジョンソンやエピソード9の監督のJ・J・エイブラムスたちはどんな王国を作るのだろうか。と書きながら僕は中上健次の紀州サーガを含めた中上健次作品を集中して読む正月になりそうです。サーガ好きなんですよね、なんだかんだ言っても。

アンカー 8

あの世の本をこの世で読む。「藝人春秋2」て

By.とみこはん
Abemaブログ「とみこはんのはんこだけ」より

 消しゴムを彫る前、「あの世」で生きる人を近くでみていた時期があります。


「藝人春秋2」は、水道橋さんが書く、「あの世」の本。


 誰かを描きながら、水道橋さんの笑い飛ばす力強さや、信条や美学が見えてくる一冊と思いました。

上巻の情景は不穏な「動く標的」から始まり、高まった緊張感から場面転換すると、財布を拾ったことから始まる、芸人エピソード。キラキラと溢れ、ばかばかしさもかっこよさもあり、陽が高く昇って行くようなイメージ。
 太陽が頭の真上に来るのは照英さんの章で、足元の影すら見えない日当たりのよさに別次元を感じます。
私は照英さんを好きにならずにいられない、と同時に、その魅力を文章で伝えてくれる水道橋さんの筆致。
これから、ますます照英さんを見る楽しみを教えてくれてありがたい。


 その後、阿藤さんのエピソードのあたりから、死であったり、だれかのこどもとしてうまれることであったり、宿命を感じはじめました。
 また、描かれる情景は3人が歩くおとぎ話のような夕景、「ほし」の話と夜をはさんでのマキタさんのお父様の葬儀の夕景と夜。
 影があるからこそ、物語のハイライトが紡がれるところに、ぐっときました。物語を継ぐ人たちの横顔がたくさん浮かびました。


 最後の大瀧詠一さんの章は、思い出のリミッターが外れてとめどなくあふれて。
立っている場所は大晦日のカウントダウン。すっかり夜になり、走馬灯のような大瀧さんとの天然色の思い出を描ききったあとでのマキタさんと鹿島さんのエピローグは、読んでいて幸せな気持ちになります。


 インタールードも夕焼けですね。水道橋さんの決意が下巻に続いていくのだな、、、。
 
 と、ここまでは、下巻もこういう感じの構成なのかな・・・と思っていました。
 
 下巻は、探求心もすごいですが、内なる正義感と更なる生き様が出ている本でした。
 私は前々から、「水道橋さんの目の前で起きている事の面白さ」の記述はもちろん好きなのですが、水道橋さんが動いている姿をもっと読めたらいいなと思っていたのです。
 芸人春秋2は、動きまくり調べまくり、探求しまくる。凄みを感じました。


 そして読後、この本に「さて、お前はどうなんだ?お前はどう生きる?」と突きつけられたような気持ちにさせられました。
 それくらい、覚悟を持った本だと思いました。
 ご自分に向き合った本だとおもいました。


 私はもう、船を降りていて、初めて知ることもたくさんありました。読みながら、胸が苦しくなるところも。
「本の順番、まずは、上から読んでみて」と水道橋さんがおっしゃっていた意味がわかりました。


 下巻は水道橋さんが完全に主人公で、エライ人を撃ったり自分を撃ったり。心の動きが見えるので人間味を感じました。
 最後の芝浜の物語から談志師匠が出てくるくだりは、自分自身に向き合っている水道橋さんの姿も重なりました。
 ガン太さんの蔵出し日記の「誰も分からないと分かっていてもどうしてもやりたいらしい」という言葉も、業の肯定ですもんね。
 
 ・・・と書くとシリアスな面ばかりピックアップしてしまいましたが、そこは多面体の水道橋さんの本ですから、ジモン&武井戦は真面目にクレイジーで笑ってしまいますし、三谷井筒戦の新幹線密室シチュエーションコメディも最高でした。どうにもならない状況で、右往左往する姿て、シンプルにおもしろいんだなあ。手紙も。見えてくる。


 ガン太さんの蔵出し日記の、降板を決意した後に尿意を催して車の中でおしっこしちゃうところとか、どうかしているし、面白いし・・・。


「芸人はどっちに転んでも、すべての物事を笑い飛ばせるからお笑いは最強なんだ」というのを、水道橋さんに教えてもらったときから、「それはすごいな!かっこいいな」と思っていたのですが、そこに知識や見聞がある人は、強いな、とも思いました。


 三浦雄一郎さんとの対話の章では、それが形になっているのを感じました。三浦さんの気持ちのいい受け答えもあいまって、特別な空気が生まれたのでしょうか。


 全編を通して、たけしさん(だいたい闇に溶けて消える。そこがかっこいい)と高田先生(だいたいご機嫌。そこがかっこいい)のベース音が聞こえてくるのも、水道橋さんの楽譜だなあと思いながら、読書をしました。


 書かずにはおれない、たしかめずにおれない、衝動が結晶になった純度の高い一冊。
 時間があれば、上下一気に通し読むのがおすすめです。


 わたしの背筋を伸ばす本であり、人です。
 好きなものには、照れずにいこう。

 まだまだ書けるような気、たくさんする、けど、長くなりすぎます。(長くなるに決まってるよね)
 だから、このへんで今年はおわりにします。
 来年は、本を読んだ人と話したいんだ。

アンカー 9

禁断の書。水道橋博士の『藝人春秋2』の尋常の無さについて

By.吉川 圭三

BLOGOS /メディア より

『藝人春秋2』上・下巻を読んで、まるであの中国の「満漢全席」のようだと思った。満漢全席とは清朝の18世紀ごろ乾隆帝の時代から始まった満州族の料理や山東料理の中から選りすぐったメニューを取りそろえて宴席に出す宴会様式である。


 後に、広東料理など漢族の料理も加えるようになり、西太后の時代になるとさらに洗練されたものとなった。盛大な宴の例では数日間かけて100種類を越える料理を順に食べる場合もあったと言われる。賓客を迎える為に中国全土から珍しい山海の珍味を取り寄せ、熊の手、猿の脳味噌、蚊の目玉、雷鳥、燕の巣、フカヒレ、アワビなど集められたと言う。


 この執拗に書き込まれた「藝人春秋2」には芸人、政治家、テレビ司会者、コメンテーター、元スポーツマンのタレント、歌手、俳優、冒険家、脚本家、映画監督、ジャーナリスト、サブカル人まで博士が直接接した人々が惜しげなく出てくる。博士が接した奇人・変人・悪人・偉人などの「規格外人物の満漢全席」と言う訳だ。曖昧な表現や誤記はこの文章が連載された「週刊文春」編集部が許さぬであろうし、博士は類い稀なる記憶力持ち主だから表現や会話もリアルで臨場感があるし、文章の裏取りは厳格な博士ゆえに丁寧で、今時、凝りに凝った本になっている。


 もちろん、その扱う対象人物により博士は“調理法”を変える。政界やメディアの恐ろしい底なし沼の異様さ描きゾッとノンフィクションとして描いた後に、どうしようもない性(さが)を持った芸人が出て来て奇行を行う様を描き読者を抱腹絶倒させ、自分の事をどこか大きく勘違いしている絶妙に可笑しみのあるタレントまで。著者は凝り性でサービス精神があり妥協がないので、読むに際して1文字も見逃せない、読み流せない本なのだ。


 だから、昨年11月に入手した本書も一瞬パラパラめくり「何かとても安易に流し読み出来ない感じ」がして、自宅のベットの傍に置きあちこち拾い読みをしていたが、私が12月13日に仕事で北京へ向かう途中、近所の急な坂で転倒し右目の奥の骨を折り全治10日の怪我で入院しなければこの本を読了するのにもっと時間がかかっていたであろう。


 やはり、「手の込んだ料理」であるから私はまず読む順番を考えたかった。筆者や編集者の方には失礼だったが、まずはメインディッシュを戴いた。上下巻に渡る「橋下徹氏、やしきたかじん氏、大阪の黒幕制作会社社長A氏に及ぶ友情と暗闘の話。博士は生放送中に政治色の強まる『たかじんのNO マネー』を降番し芸能界の御法度を犯した。」


 その一部始終はまさに巻置くを与えずであった。人間という不可思議な存在が引き起こす出来事に業界探偵・博士が突っ込んで行く。すでに橋下徹氏はノンフィクションライター・佐野眞一氏を奈落の底に落としているから、博士の筆致をドキドキしながら読んだ。またA社長のMXテレビの「ニュース女子」まで話が及ぶに至り、このテレビメディアが容易に情報操作できることも感じてとても薄気味悪かった。


 続いて、タモリさん、リリー・フランキーさん、ビートたけしさん、が続き選りすぐりのネタで読みやすく、三叉叉三さんと松本人志さんの「暮れの夜の恒例行事」を読み椅子から転げ落ち、冒険タレントの照英が静かに語る一撃必殺のホッキョクグマの事、そしてそれよりはるかに怖い「地上最恐生物」の南アフリカの血に飢えたホオジロザメは私(吉川)と部下の財津功(「お笑いウルトラクイズ」の冷血ディレクター)が「ドリームヴィジョン2」を仕掛けた事が判明ししばし驚いた。


 そしてさんま・博士・たけし・藤圭子のお子様たちに関するレアーな話あり、大物ミュージシャン・大瀧詠一氏の桁外れな音楽基地とそのお笑いマニアぶり、猪瀬直樹のアナクロニズム、徳洲会の徳田虎雄の怪異さ、そして以下の二人共に思い込みがはげしい「アスリートタレント武井壮VS肉体派お笑い芸人・寺門ジモンのオレが地上最強だ。」激論会、三谷幸喜VS武闘派映画監督・井筒和幸の新幹線・グリーン車でのあわや大惨事など。


 そしてこれはもう一つのメインディッシュ「石原慎太郎VS冒険家・三浦雄一郎」。・・・なぜ博士はこの得体の知れない石原に近づくのか?そしてなぜ石原は罪もない三浦を何十年も叩きつづけるのか?・・・そこには得体の知れない不思議な存在と関係が横たわっていた。〆は博士曰く「日本初のAV男優」田原総一朗の狂気のドキュメンタリスト時代。あの『ゆきゆきて神軍』の原一男監督は田原氏の末端のスタッフだった!そしてミュージシャンの岡村靖幸との爽やかな出会い。エピローグは立川談志と泰葉と博士を巡る「爆弾級」の話。・・・博士、貴方はここまで書くか。


 実は、入院中本格的にこの本を読みながら、iPadや雑誌を隙間で読んでいた。深刻な話にせよ笑える話にせよ、このノンフィクションが濃かったからだと思う。おそらく博士が睡眠時間を削り刻印する様に描いた痕跡を感じたからであろう。確かに、博士はこだわり屋で凝り性である。だから、どんな話にせよ、一息つくことが私には必要であったのだ。


 最後に博士に文章を書くことを薦めた石原慎太郎氏と立川談志氏に感謝申し上げたい。書籍の世界に稀なる博士の目撃談・体験談による見事なノンフィクション本が生まれた遠因はこの二人なのだから。

『藝人春秋2』を読んで……

By.柴尾 英令

2017年12月14日「Facebook」より

 ぼくらは肉体と物語とともに生まれてきた。

 老いてやがて死を迎える肉体。ときに想像の荒野を開拓し、未踏の大地を幻視させる物語。

 肉体は鍛錬と精進によってその能力を高める。物語は経験を勝てにして豊かなことばとともに、視野を広め、見えなかったものを見せてくれる。

 肉体と物語は不即不離である。成長し、老いる肉体への観察ぬきで、物語の豊穣は完成しない。夢を見るための物語ぬきで、人は明日を健康に迎えられない。

 肉体と物語は貪欲である。なにかを達成すれば、より高い目標を求めるものだ。

 肉体と物語の指標と基準は、他者との比較によってなされる。同じ年齢、同じ出身、同じ性別。同じ人間。そんな他者を観察し比較することで、自分の価値を決めていく。

「藝人春秋2」は、昭和37年に日本で生まれた小野正芳という人間が他者の生み出す物語に惹かれ、水道橋博士となった物語に戸惑い、それでもよって立つべき肉体が織りなす物語に納得するために歩んできた55年が生み出した肉体と物語のランドスケープ・スペクタクルだ。
 
 自分自身の正体を知りたい。直接間接を問わず、自分の関わった人と行動について納得したいという欲求はだがにでもあるだろう。だが、水道橋博士のそれは度を越している。

 猪瀬直樹や石原慎太郎、三浦雄一郎の正体と同列に、武井壮、寺門ジモン、タモリといった面々も等価に並べ、その正体を納得いくまで、追求していく。

 彼らが結果として生み出す物語と、彼らが織りなしたいと熱望する物語。多くの人物評伝は物語に合焦させることが多いのだが、『藝人春秋』の場合は、肉体への記述が多いことが、興味深い。

 脳もまた肉体の一部であるから、老いとともに物語の精度を侵食させていく。石原慎太郎と三浦雄一郎の確執と距離は日本の政治史の一エピソードであるとともに、肉体の説得力に意味を持たせている。

 肉体的相似形を自身の時間差のあるロールモデルとして提示した田原総一朗とのエピソードの数々は、過剰なまでに自身を曝け出すことの理由と意味をみせてくれる。

 もどかしくも、呪わしい、橋下徹、やしきたかじん、関西テレビ業界の暗雲に対する「正体を見せろ」、「納得できない」の行動を伴う連呼は、日本を覆う"肉体性なき物語"の暴走を告発する。

 冷戦期に書かれた諧謔味あるファンタジーとしての「007」のメロディを"肉体性なき物語"に対抗する"物語"として配置しながら、「正体を見せろ、ブロフェルド」と切り込んでゆく蛮勇に喝采を送りつつ、初老の男のはにかんだ愛情の表出に、ぼく自身の物語も新たなメロディを奏でだす。

 岡村靖幸と岡村隆史。現在進行系の水道橋博士自身の物語の中に、ふたりのオカムラがいてよかったね。

 そして、あなたの物語を遍照する太陽として「殿」がいてよかったね。

 そんなすてきな物語を読めて幸せだったよ。

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今週の新刊◆『藝人春秋2』

By.岡崎 武志

「サンデー毎日」2018年2月11日増大号よりより

 不思議な芸人である。共演者に「ハカセ」と呼ばれ、冷静に知識やコメントを発する。ビートたけしの弟子で、お笑いコンビ「浅草キッド」という出自を知らない人は、本当に「博士」と思うかも。


 紆余曲折の長い芸歴の中で、水道橋博士が知る人たちの「業」に迫ったノンフィクションコラムが『藝人春秋2』(上下巻)。「ハカセより愛をこめて」(上)「死ぬのは奴らだ」(下)という副題でも分かる如く、映画通でもある。


 俎上に載るのはタモリ、みのもんた、寺門ジモン、劇団ひとりなど芸人仲間もいれば、猪瀬直樹、石原慎太郎、田原総一朗など「エライ人」枠にも容赦ない愛とムチが飛ぶ。老害とバッシングを受けた石原を「『威張りんぼうは面白い!』という視点で、あえて相手の懐に飛び込んで観察する」姿勢で受け止め、茶化す。
 

 デーブ・スペクターを「今や沖縄の普天間よりも厄介な進駐軍」と評するなど、毒入り批評は師匠ゆずり。とにかく読ませます。

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水道橋博士の偏執的な情熱がまぶしい「藝人春秋2」

By.usukeimada

はてなダイアリー「倒錯委員長の活動日誌」より

 TBSの「A-Studio」では毎回最後に、司会の笑福亭鶴瓶がその回のゲストについて一人しゃべりを披露するのが通例だ。今や「A-Studio」に出演する=鶴瓶の一人しゃべりのネタになるのが芸能人のステータスになっているが、それならば、この著者に筆をとらせるのも、もはや一つの到達点と言えないだろうか。


 全2巻にまたがる本作は、お笑いコンビ・浅草キッドの水道橋博士による人物評伝だ。別件で話題沸騰中の週刊文春編集長からの「特命」を受けた「芸能界に潜入するルポライター」として、芸能界、政財界に生息する怪物たちの姿を活写する。今作は特に連載誌が「文春」とあって、対象によってはかなりジャーナリスト寄りで硬質な内容になっているのが、前作『藝人春秋』にはない特徴だ。


 博士の文は、次から次へと飛び出す巧みなアナロジー、ナンセンスギャグ、ダジャレによって読者を「水道橋史観」ともいえる芸能界ユニバースへといざなう。専業作家も顔負けの堂に入った文体で、被写体の輪郭を切り取っていく様は見事だ。


 一方で、博士自身が「過剰」な人物であることも忘れてはならない。最近一部で話題になった「オールナイトニッポン」をめぐる「殴り込み疑惑」も、誤解として決着はついたが、「博士ならしかねない」というリアリティがあった。偏執狂的な思い込みと情熱と行動力がある著者だからこそ、対象者の思わぬ側面に迫れたのだといえるだろう。例えば、石原慎太郎と冒険家・三浦雄一郎の間に生じたすれ違いとその「真相」にたどり着いたのは、著者の執念に近い固執があったからに他ならない。本書ではその後の2人の明暗を残酷なまでにくっきり描き切っている。


 ときには面白すぎて「これホント?」と眉につばをつけたくなる箇所もあるが、流麗な筆致と偏執的な思い込み=情熱によって著された文を、読者の脳は「んなことの前にこれは面白い」と判断を下してしまう。信憑性よりも面白さが勝ってしまうのだ。博士は前作『藝人春秋』の中で、お笑いにおける「強い」の概念を提唱していたが、博士自身の文も立派に「強い」のだ。


 これだけやっておきながら「あ、この章は手を抜いたな」というのが一つもないのだからすごい。この本全体から漂う本気度は軽くタレント本の域を超えている。


 博士の文章を読んでいると、プロインタビュアー吉田豪が思い浮かぶ。


 一度だけ、吉田氏が文章に起こしたある人へのインタビューを動画で見たことがある。すると何が起こったか。皮肉なことに、吉田氏が直に相手に話を聞く様よりも、吉田氏が文章化したものの方が面白かったのだ。ぼくが対象を直に見るより、吉田氏のフィルターを通して出来上がった虚像のほうがずっと面白いということだ。博士についても同じことが言えるのではないか。


 万が一、ぼくが博士の知り合いだとして。そして億が一、博士が次の文章でぼくを書こうとしていたとしよう。ぼくはそれを断固拒否すると思う。もう公開してしまったといわれたら、その文章は決して読まないし、読んだ人にはなるべく会わないように生きることを決意するだろう。


 なぜなら、ぼく自身が博士の書いた「ぼく」を超えられる自信など到底ないからだ。


 それだけに、自身について書かれた原稿をコピーして配り歩いたという三又又三の度胸たるや。厚顔無恥もとい、博士に言わせれば「肛門無恥」の加減には頭が下がる思いである。

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「藝人春秋2」を読んで

By.古泉 智浩(漫画家)
ブクログ「レビュー」より

「藝人春秋2」上 ハカセより愛をこめて

 

 とても面白かった!

 登場する人物の中で実際にお会いしたことがあるマキタスポーツさんは、育児の話があったりお父さんが亡くなっていたりと、世代的にも近くて自分に重なるところが多々あり非常にぐっと来た。また、ポッドキャスト活動は多大な影響を受けている。

 上巻で一番びっくりしたのは大滝詠一さんで、中学生の時にレンタルレコードで46分テープにダビングした『ロングバケーション』の記憶が鮮明だ。そんな大滝さんが基地のようなご自宅で日本中の放送をチェックしている奇人であったことが衝撃だった。山下達郎のFMの番組に年末ゲストで毎年登場していたけど、そんな人だったとは想像もしなかった。もっと詳細を知りたくなった。

「藝人春秋2」 下 死ぬのは奴らだ


 上巻に続いてとても面白かった。

 

 博士さんの本でおなじみの寺門ジモンさんと武井壮さんの対決は、寺門さんがマウントしようとしている感じがスリリングだった。その先が見たいような、見るのが怖いような感じがした。

 

 新潟は関西の番組がたくさん放送されていて、たかじんさんの番組はよく見ていた。たかじんさんが出なくなってだんだん面白くなくなって亡くなってからは全く見なくなった。そんな状況の舞台裏を生々しく描写してあって、腑に落ちた。

 

 巻末の博士さんの告白が非常に重くて驚いた。この上下巻に凄みがあったのはそれが要因だったのか。

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水道橋博士『藝人春秋2』

「夕刊フジ」2月3日付け

 累計10万部を記録したエンターテインメントノンフィクションの傑作『藝人春秋』の続編。2014年に週刊文春に連載した「週刊藝人春秋」に大幅な加筆を敢行し、上下巻、計720ページの大作となった。

 水道橋博士による、テレビを舞台に活躍する怪人、奇人、変人たちの濃厚すぎる人生、嘘のような本当の話は一気読み必須だ。ついには生放送での降板劇へとつながる橋下徹との因縁、タモリの財布をめぐる奇縁、三又又三の想像を絶する「金玉芸」、ビートたけしの息子との30年にわたる交流、藤圭子と宇多田ヒカルの「光」をめぐる壮絶な物語、武井壮と寺門ジモンの芸能界最強の座を賭けたばかばかしい死闘、半世紀にわたる石原慎太郎と三浦雄一郎のミステリーの謎解き、感涙必至のエピローグ――抱腹絶倒、唖然呆然、波乱万丈のエピソードが次々とつづられる。

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彼らの人生そのものがエンターテインメントだ!芸人たちの型破りな生き様

By.塩田 武士(小説家)

「週刊現代」2018年3月10日号

 これが全て実話なのだから驚く。芸能界に潜入するルポライターを自任する水道柿博士さんの『藝人春秋2』(上下巻)は、重ねに重ねた逸話のミルフィーユだ。
 ビートたけしゃタモリといった大御所はもちろん、橋下徹、猪瀬直樹、徳田虎雄ら物議をかもした政治家、三又又三や寺門ジモンら一線を越えた芸人まで、ただ者ではない人物たちをワンプレートに載せる。
 中でも橋下氏は、上下巻それぞれに登場するが、強烈な言葉の羅列で議論を勝ち負けにして見せるやり方を筆者は「政治家としてはあまりに無教養で幼稚だ」とばっさり斬り捨てる。一方で「ボクは単純な『反・橋下』ではない」とある通り、一方では橋下氏の人間的な言動も丁寧に拾っている。名刀は鞘に納まって
いる、というメッセージがよく伝わってきた。
 博士さんと言えば、テレビ大阪のバラエティ番組『たかじんNOマネー』の降板劇が記憶に新しい。その真相は本書に譲るとして、これに関連するのが関西の怪物やしきたかじん氏。たかじん氏の番組に呼ばれた当初は存在感に圧倒されたものの、博士さんは徐々に信頼を勝ち取っていく。たけし軍団である以上「忠臣は二君に仕えず」と、一定の距離を保ち続けたが、たかじん氏の訃報に際し「一度でいいから、酒席をお伴させていただきたかったです」との言葉を飲み込んだ。
 癌からの復帰後、何度も収録を中断しなければならないほど、たかじん氏の体調は優れなかったという。子どものころから、ずっとテレビで見ていた強い男の衰弱する姿に胸が痛んだ。さらにつらいのは、本書でも疑問を呈する“ノンフィクション”本『殉愛』の発売。皆まで言わないが、失望している関西人は多い。
 複雑な内容でも嫌味がないのは筆者の文才故だろう。橋下政治に関し、大阪の「府」と「都」を将棋の「歩」と「と」に置き換えるなど、繰り返される言葉遊びのセンスに圧倒される。
「タモリの落とした財石」「リリー・フランキー、伝説のテレフォンショッキング」「ビートたけし、赤いポルシエの行方」「コウガン芸人三又又三」「ネイチャージモンと武井壮の死闘」「辿り荒いた談志の『芝浜』」……など「人間」こそが最高のエンターテインメントだと気づかせてくれる。

水道橋博士『藝人春秋2』について
By.兵庫慎司(ライター)

「はてなブログ」より

2017年11月30日に出た本なので、今頃何か書くのはだいぶ遅いのですが。

 

  ひとつひとつの言葉の選び方、句読点の打ち方、一文一文に込められたネタや引用など、細部までもうとにかく徹底的に詰められた、異様な完成度を文章を書く、水道橋博士とはもともとそういう人であって(これすげえ時間かかってるだろうな、一度書いてから推敲しまくるんだろうな、といつも思う)、そのことについては昔、書評を書いたりもしたし、読者としても編集者としても(昔、浅草キッドの単行本を作ったことがあるのです)把握しているつもりなので、今さら驚かない。

 

  ただ、下巻にはびっくりした。

  やしきたかじんの章、『橋下徹と黒幕』の章、石原慎太郎VS三浦雄一郎の章。昔、単行本の帯とかで、浅草キッドを「ルポライター芸人」と形容したことがあるが、そのレベルではない。これ、完全にノンフィクション作家の仕事だと思う、博士が読者として傾倒してきた人々と同じ次元の。

  しかも、取材対象に興味を持ったので迫っていく、というのではなく、自分が言わば登場人物として巻き込まれた、だから書くしかなかった、というのがさらにすごい。というか、怖い。べつに本人は巻き込まれたくて巻き込まれたわけではないだろうが、そのことによって、結果的に「ノンフィクション作家もやっている芸人」にしか書けないものになっているし。

  『お笑い男の星座 芸能死闘編』(文春文庫)をお持ちの方は、その中の『爆笑問題問題』と、改めて読み比べてみることをお勧めする。「自分も登場人物のひとりであるノンフィクションを書く」という構造は同じだが、文章といい、その文章に至るまでの調査やファクト・チェックといい、今回の方がはるかにハードコアだ。水道橋博士がこの十数年で何を経験し、どんなことを感じ、考え、行動に移して来たか、その結果どうなったか、ということを表していると思う。

 

  それから、下巻の最後に書かれた、水道橋博士自身の病気のこと。

  なぜ敢えてこれを書いたかについては、本書の中で記述されているが、勝手にひとつ補足させてもらうなら、書かないとフェアじゃないと思ったから、書いたのではないか。人のことをいろいろ書いておきながら、その書いている時期に自身に起きた、触れられたくないところについては何も触れない、というのはずるい、と感じたのではないか。理屈で考えれば、別にずるいことでもなんでもない。でも生理的にそう感じたからそうしたのではないか。

  僕はそんなふうに受け取りました。

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博士の異常な欲望――『藝人春秋2』の蒐集
By.矢野利裕(ライター)

「Livedoorブログ」

 たしか2012年の年末、『文化系トークラジオLife』(TBSラジオ)に出演したとき、今年の一冊として、水道橋博士『藝人春秋』(と、安藤礼二『祝祭の書物』)を紹介しました。道化論ばかり読んでいた時期でもあり、タイミング的なことも含め、とても刺激的な読書体験だったので、のちに長い感想をブログに書きました。その感想については、博士さん自身もリアクションしてくれました。

「境界領域に立つ者のドキュメント――水道橋博士『藝人春秋』(文藝春秋)を読んで」
http://blog.livedoor.jp/toshihirock_n_roll/archives/51757877.html

 続編となる『藝人春秋2(上)(下)』をずいぶんまえに読みました。博士さん自身、広く書評・感想を求める旨、ネットで発言していたので、今回も書こうと思います。ただ、あまりにも多くの仕掛けがある本書を読み解くのは、たぶん僕の知識と注意力では限界がありそうです。だって、上下巻を貫く「芝浜」の円環構造とか全然気づかなかったよ! 博士さんによる仕掛けの数々は、枡野さんと古泉さんによる『本と雑談ラジオ』でもいろいろ明かされているので、そちらをおすすめします(そして、TBSラジオ『爆笑問題カーボーイ』2018年2月20日回を聴くことをおすすめします)。だからここでは、必ずしも著者自身が意識していない(と思われる)本書の構造について書きたいと思います。本人すら了解していないことを「こうなのだ」と言い募るのが、批評家の詐欺師的性質だ。

 僕は前作のテーマを、彼岸(芸能界)と此岸(日常)をつなぐことだと捉えていた。異形な芸能人を語ってきた文章が、障害者の存在に触れながら、最終的に死者(彼岸の住人)に捧げられることで終わる。彼岸と此岸をつなぐ『藝人春秋1』の、その構成がとても見事で感銘を受けた。だとすれば、博士はそのとき、彼岸/此岸の境界に立つ道化的な存在となっている。一方続編となる今作では、その立場を一歩進める。芸能界に対してはより介入的になり、さらにそれは政界にまで及ぶ。異形の者たちが集う彼岸に潜入して、彼らを撃つこと。『藝人春秋2』では、『007』になぞらえながら、スパイとしての自身の状況介入的な立場を明確に打ち出している。

 道化からスパイへ。あるいは、道化から探偵へ。

 本書において、まず見るべきはこの点だ。では、これはなにを意味するのか。通常読み取られるべきは、問題ある政治家への、そして、それに加担するメディアへの批判姿勢である。橋下徹、石原慎太郎、猪瀬直樹など、ウォッチされるべき公人に対して博士の追及は厳しい。『週刊文春』のメイン記事にすべきとも思える社会的な問題を、竹中労のルポさながらに追っていく。社会や政治に対する状況介入的な態度は、前作にはなかった本書の大きな特徴である。スパイとなった博士は、自らの筆で敵を始末しようとしている。「死ぬのは奴らだ」と。

 しかし、そこまで踏まえてなお、スパイであることの真の意味は別のところにあるのではないか、と思える。今年定年を迎えた、学魔こと高山宏は、19世紀末のヴィクトリア朝イギリスについて考えるなかで、コナン・ドイルが作り出した、探偵シャーロック・ホームズにおける蒐集の欲望について論じる(「殺す・集める・読む――シャーロック・ホームズの世紀末」『アリス狩り』)。高山によれば、ホームズもワトスンも、社交界の記録、官界の醜聞、人事関係、事件関係の一切を収集し、索引化し、所有し、捜査の材料とする。ホームズの推理は、これらの断片を独自につなぎ合わせることで、通常の人には見えないものを紡いでいくのだが、そのとき「ホームズは事実そのものの集積に、索引のための材料のコレクションに熱中しているのである」。そこには、世界を文字化し、索引化するというホームズの異常な蒐集の欲望がある。


 かれにとっては世界よりも、世界の文字化、索引化の方が魅惑的である。ホームズの索引とワトソンの日記で世界は二重に文字へと平板化され、ホームズの部屋の中へ、アルファベットの秩序の中へ、コナン・ドイルの意識の中へと「所有」される。世界が文字へと標本化されると言ってもよい。

 そしてホームズとワトソンの、世界を文字の裡に収集するという感性を、ホームズ作品そのものが見事になぞっていく。推理小説ほど細部(ディティル)が「伏線」として重要なジャンルはないわけだから、それを口実にして、ここでは世紀末文学特有の細部への惑溺趣味は存分にそのはけ口を見出すことができたのである。


 僕が言いたいのは、博士は二重スパイだった、ということだ。道化という立場から権力を撃つスパイとなった博士が、人知れず『藝人春秋2』に密輸入したものは、実は、このホームズ的な蒐集の欲望に他ならない。したがって、高山にならってこう言おう。博士は、権力を撃つことを口実に、事実そのものの集積に、索引のための材料のコレクションに、熱中しているのである。目を凝らして、どんな些細な情報も見逃さない。本書において、博士の蒐集や記録の欲望はくりかえし自己確認される。


 その夜から、彼はテレビ界の要注意人物として、ボクの観察対象としてスタメン入りした。(上巻p.24)

 テレビを見ていてもスルーできない発言は、そのまま心に引っかかり、録画を残し、メモに取る。(上巻・p.42)

 自分を含めて、同時代人の年表作りは、ボクの趣味でありライフワークなのだ。(上巻・p.258)

 これほどまでにボクが揺るぎなく小倉伝説を語れるのは、草野伝説と同様、伝聞だけでなく、資料にあたり、本人に裏取りをしているからだ。(下巻・p.26)


 さて、この項を読みながら読者は不思議に思うだろう。なぜ、ボクが猪瀬直樹について、ここまで事細かに書けるのか?/それは、ボクが幼少の頃から記録魔で、習性のようにメモや日記を残しているからだ。(下巻・p.80)

 この章では、ボクが20年に渡って書き続けている日記を軸に、資料や関連項目をピックアップし、日付や放送資料の裏を取りつつ、当時の模様を振り返ろうと思う。(下巻・p.141)

 拠り所にする言葉が枯れると、新たな言葉を探して本の海をひとり泳ぎ、潜水した。(下巻・p.322)


 
 一見、社会派ですらある本書の底辺に流れているのは、あらゆる事実を蒐集しようという博士の異常な欲望である。もちろん、政治家を追及するさいの博士の正義感は疑うべくもない。しかし、正義感を発揮するそのさなかでさえ、博士の異常な欲望は作動している。博士が行動を起こすとき、いつかこの現実を文字化して記録することを、あわよくば作品化することを、念頭に置いていなかったか。

 

  考えてみれば、博士はつねにそうだった。博士が欠かさずに記している日記、惚れ込んだ人の年表作り、下調べと裏取りへの執着。明らかに過剰な博士の細やかさは、その異常な蒐集への欲望によって支えられている。壁一面に本のコレクションが並んでいるという博士の仕事部屋の存在は、室内を資料館化し博物館化し標本化する19世紀末の時代精神に通ずる。

 そもそも、本書における事細かなエピソードの数々自体、異常な情報蒐集の結果ではないか。高山は、「まずホームズの頭の中には過去の事件が全て記憶されていて、これから自在な引用を織り合わせて新しい事件の織物(テクスト)を構成していく」と論じている。標本化され索引化された事実の断片をサンプリングし全体像を立ち上げること。通常は気づかない事実の重なりに物語を見出す博士一流の「星座」の提示は、細部の観察によって事件の全貌をつかもうとする点で、極めて探偵的な手つきでもある。道化からスパイへ、道化から探偵へ、という転身で露わになったのは、蒐集癖という博士の異常な欲望だ!

『藝人春秋2』の真の主題(テーマ)は、博士が手を変え品を変え事実を蒐集する、ということだ。ショッキングな告発的ルポルタージュさえ、『藝人春秋2』全体の構造からしたらサブテーマとなる。だとすれば、『藝人春秋2』の構造において博士の本当の敵は、橋下徹でも石原慎太郎でも猪瀬直樹でもない。

 博士が真に打倒すべきは、大瀧詠一その人だ。

『藝人春秋2』の構造を真におびやかすのは、福生の自宅であらゆる情報を蒐集する大瀧詠一に他ならない。同じ「スペクター」でも、デーブではなく、フィル・スペクターの影響下にある大瀧詠一に。

 実際、高田先生に連れられた大瀧詠一宅の蒐集(「コレクション」)は、異常にもほどがある。「ウィスパー・カード」やソノシートを含めた「数万枚はあろうかというEPとLP」、「数万本はあるだろう」ビデオテープ。極めつけは、「録画モード」で動き続けている「無数のビデオデッキと最新鋭の小型8mmデッキ群」。さらに、「日本の地方局くらいなら全部、観れちゃうし、聴ける」くらいのパラボナアンテナ。人並外れた蒐集行為によって支えられている本書は、語り部である博士以上の蒐集家が出現によっておびやかされる。世界中の情報を蒐集する大瀧との対面こそ、本書におけるもっともクリティカル(危機的=批評的)な場面である。

 だからこそ博士は、大瀧の情報量に必死に食らいつこうとする。事実を蒐集して創造的につなぎ合わせる、そんな真の探偵は誰か。七変化する探偵の多羅尾伴内(大瀧詠一の変名でもある)は誰か。本書における真の闘争は、その点にあった。少なからぬ人が言っていたように、大瀧詠一の章に読み応えを感じるとすれば、それは、大瀧詠一の章こそが本書の構造的なハイライトだったからだ。余裕たっぷりに相手を迎える大瀧詠一は、「スペクター」の首領にまことにふさわしかった。

 本書の構造を明らかにしたとき、スパイはふたたび藝人に戻るだろう。本書を通読してみれば、博士があらゆる情報を蒐集するのは、必ずしも敵を撃つためだけではないことがわかる。独自につなげ、まだ見ぬ景色=星座を提示するためだ。謎かけもダジャレも漫才のボケも、一見無関係な二項をつなげることでおかしさ(滑稽/奇怪)をもたらす。政治批判自体が目的化されているわけではない。蒐集してつなげるという藝人的な身振りが、本書においてはスパイの告発として機能しているのだ。

 大瀧との対決は博士が相手を最大限に称えることで閉じられるが、その言葉は、なにより蒐集をめぐる闘争だったことを表している。――すなわち、「あなたが風をあつめたように、思わず笑ってしまう話をボクもあつめます」と。世界を文字化する蒐集の欲望こそが、『藝人春秋2』という言葉の世界を創り上げているのだ。

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